加藤礼次朗レポート
堀内店長のリクエストにお応えして、横山光輝先生について、ちょっと調べてみました。
横山光輝先生は1934年(昭和9年)神戸市須磨区のお生まれでした。戦時中は鳥取の方へ疎開されていたようですが、神戸市立太田中学校、同市立須磨高校をご卒業なされ、卒業後は神戸銀行の銀行員として働かれていらっしゃったそうです。東京育ちでまったく土地勘のない私にはわかりませんが、神戸在住の堀内店長ならこのあたりは感慨深いものがあるかもしれませんね。
子供の頃から漫画が好きでその思いを断ち切ることができなかった横山先生は、漫画を描く時間を作るために銀行を退職され映画などの看板絵を描く仕事に転職、関西の出版社へ原稿の投稿、持ち込みを続け貸本漫画でデビューされました。
昭和20年代、子供向けの読み物は絵物語が中心で漫画の知名度はまだそれほど高くなかったといいます。しかし関西には、貸本業界を中心として漫画の一大勢力があつたそうです。手塚治虫先生も宝塚生まれで貸本漫画の出身でしたし。現在に繋がるコマ漫画の歴史は関西から始まったと言えるでしょう。貸本漫画でデビューされた横山光輝先生は、その画力と計算された構成力、そして何より娯楽性を高く評価され東京の出版社から雑誌漫画の連載を頼まれました。
『鉄腕アトム』が連載されていたことでも知られる月刊誌「少年」で、横山先生の『鉄人28号』の連載が始まったのが1954年(昭和29年)。『鉄人…』はアトムと人気を二分するほどの大ヒット作となり「自分は漫画家として食べていけるかもしれない…」と感じた横山先生は、看板絵描きの仕事を辞して上京されました。横山先生ニ十歳の決断です。
漫画家としてデビューされてからも、前の仕事をすぐに辞めず続けられていたところに、驚きとともに先生のもと銀行員としての慎重な姿勢が感じられて考えさせられますね。私も見習わないと…。
日本初のTVアニメ『鉄腕アトム』に次いでアニメ化された『鉄人28号』は、日本初の“巨大ロボットアニメ”でした。その魅力について語り始めるとあまりにも長くなりすぎますので、ココでは割愛させていただきますが、製鉄所のある神戸の街に立つ巨大な“鉄の人”の姿は、写真で見るだけでも何だか胸がジーンと熱くなってきます。今となってはかなわぬ夢となってしまいましたが・・・横山先生とお会いしたかった・・・。
店長追記:加藤礼次朗先生、横山先生は亡くなられましたが、ご盟友がご健在です!
時代活劇から少女マンガまで幅広く執筆されている東浦美津夫先生です!
手塚治虫先生の大ファンだった横山青年と東浦青年は、公園でマンガへの想いを熱く語り合ったそうです。講談社のプレミアム・マガジンvol05に東浦先生のインタビューが載っていますよ!
ジャジャジャン!そして加藤礼次朗先生には今回の詳細なご報告に対して、感謝の気持ちを込めて、東浦先生とお会いできるチケットをプレゼントしましょう!
「エッ?なぜ僕が東浦先生を知っているのかって?」
「それはヒミツ、ヒミツよ、ヒミツのアッ子ちゃん!?・・・関係ないか」
最近のコメント